徳川家康・武田領の山県・土屋・原・一条の四家の兵を収めて井伊直政の配下にし、家康は浜松城に戻る・大槻磐渓・自筆「日本外史」末尾の商品情報

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徳川家康・武田領の山県・土屋・原・一条の四家の兵を収めて井伊直政の配下にし、家康は浜松城に戻る・大槻磐渓・自筆「日本外史」末尾の1番目の画像
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  • 開始価格
    23,000円
    入札単位
    500円
  • 数量
    1個
    商品状態
    美術品(額縁は新品)
  • 開始日時
    2018年2月16日 11時13分
    終了日時
    2018年2月18日 21時11分
  • オークションID
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商品説明

頼山陽「日本外史」大槻磐渓・直筆(自筆)緒方洪庵・旧所蔵

(額縁は新品です。自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)

《徳川家康・武田領の山県・土屋・原・一条の四家の兵を収めて井伊直政の配下にし、家康は浜松城に戻る》
《天正十一年(1583)八月、徳川家康は甲斐国へ出向く・真田昌幸には上田の領地を与える》


原本上部に「適々斎」の落款が見えます。
「適々斎」は緒方洪庵の号です。

額縁裏面ラベルの「NIHON GAISHI」は、アメリカの大学など
海外示のための「仕様基準」に基づき表記されたものです。
「NIKHON GAISI」(V.M.Mendrin,1915,Vradivostok.)の訳もあります。

「額縁入自筆原本」



「自筆原本」

自筆の所蔵来歴及び国内所蔵数については下記に記載

頼山陽と親しい仙台藩の大槻磐渓が書き写した「日本外史」の自筆・原本です。

「日本外史」は、大槻磐渓・自筆の「楷書体」で記されております。大槻磐渓の一幅の書の市場実勢評価額は85万円です。(下記に美術年鑑評価額の写しを掲示)「日本外史」の著者・頼山陽は、大槻磐渓の最も尊敬する師であったため、「日本外史」を「草書体」ではなく、丁寧な「楷書体」で渾身をこめて書き上げたところに磐渓の丁寧さと几帳面さとをうかがい知ることができます。
海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。

出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。上から3番目の写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の優れた技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。

(Ⅰ)・出品した原本の「原文の読み下し文」は次の通りです。

《「日本外史」徳川氏・正記》
《少将(徳川家康)、》・・・・其の采邑(さいゆう)を検し、或は旧に依り、或は之を削り、平岩親吉をして甲斐を鎮せしめ、大久保忠世をして信濃を鎮ぜしむ。務めて武田氏の旧制に因り更変する所なし。
独り其の厚斂苛刑を除く。寺を田野に建てゝ以て勝頼を弔(ちょう)す。小宮山内膳の忠節を嘉し、其の弟又七を召して、之に禄し、其の季弟の僧となれる者を以て田野寺の主となし、山県、土屋、原、一条の四族の兵を収めて井伊直政に属せしむ。軍装皆赤色を用う。井伊氏の兵、之より強し。
十二月、少将(徳川家康)、乃ち浜松に還る。降附四人を以て採訪を掌らしむ。北条氏、使をして幣を納れしむ。織田氏の古将・柴田勝家も亦だ使をして平定を賀せしむ。
十一年(1583)閏正月、松平康親の功を賞し、河東二郡を賜う。
二月、依田信蕃攻めて岩尾を抜いて之に果つ。少将(徳川家康)、其の子に禄し、姓名を松平康国と賜う。康親の例に依るなり。乃ち大久保忠世に命じて康国を助けしめ、攻めて小室を抜き、守将宇佐美定行を走らす。景勝敢て援けず。
七月、北条氏、女を迎う。酒井忠次、之を護送す。八月、少将(徳川家康)、甲斐に如き法令を修む。
真田昌幸に賜うに上田を以てす。昌幸、上野を侵し、沼田を取る。
十月、少将(徳川家康)、正四位下に進み、右近衛中将に遷る。

《日本外史 巻之十九 終》

(自筆漢文の「解読文の作成」は出品者)


(Ⅱ)・出品した原本の「原文の現代語訳文」は次の通りです。


《「日本外史」徳川氏正記 徳川氏二》
《徳川家康・武田領の山県・土屋・原・一条の四家の兵を収めて井伊直政の配下にし、家康は浜松城に戻る》
《天正十一年(1583)八月、徳川家康は甲斐国へ出向く・真田昌幸には上田の領地を与える》
《小宮山内膳(友晴)の忠節を賞美し、その弟の小宮山又七を呼んで禄を与え、》・・・・・その末弟の僧侶になっていた者を田野の寺(景徳院)の住持にした。
山県・土屋・原・一条の四家の兵を収めて井伊直政の配下にした。
彼らは戦時の服装に、いつも赤色を用いた。井伊氏の軍はこれ以後、めっきり強くなった。
十二月に入って、徳川家康は浜松へ戻った。今度帰服した四人の大将に、地方検察のことを司らせた。 北条氏が使いをよこして進物を納めた。
もと織田氏の大将、柴田勝家も使いを立てて平定の祝いを述べた。
天正十一年(一五八三)閏正月、松平康親の手柄を賞し、河東の二郡を与えた。
二月、依田信蕃が岩尾を攻め落としたあとで撃たれた。
徳川家康はその子に知行を与え、姓名を松平康国とした。これは、松平康親の前例によったのである。
そこで、大久保忠世に松平康国を助けるよう命じた。
そこで、小諸を攻め落とし、守将の宇佐美定行を走らせた。
上杉景勝はそれを助けようともしなかった。
七月、北条氏が徳川家康の娘(督姫)を迎えに来た。酒井忠次が娘を護送した。
八月、徳川家康は甲斐国へ出向いて、法律・命令を整理した。真田昌幸には上田を与えた。真田昌幸が上野国へ侵入して沼田を取った。
十月、徳川家康は正四位下に進み、右近衛中将にうつった。

《日本外史 巻之十九 終》

現代語訳の出典・「日本外史」
訳・頼惟勤・お茶の水女子大学名誉教授(1922~)

「自筆の断層(MRI)写真」


(断層画像MRI-19-26-A)

「原本の落款及び大槻磐渓の評価額」

写真左は、奥付の大槻磐渓の落款。右上はその拡大写真
右下の写真は、大槻磐渓の書の評価額(一幅)「美術年鑑」

「額縁裏面のラベルの表示」

海外展示の際、額縁の下に断層写真が掲示されます。
日本では断層写真による掲示の事例がないため、国内
展示用に準拠し、額縁の裏面に下記ラベルを貼付します。




頼山陽「日本外史」大槻磐渓・自筆(直筆)を出品
商品説明 頼山陽と親交があり、また尊敬をしていた仙台藩の大槻磐渓の筆になる「日本外史」の古切です。「古切」は、「断簡」とも言います。
貴重な大槻磐渓・筆「日本外史」の古切を身近なものとして鑑賞することができます。
自筆 自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「日本外史」の文字が記されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。落札後には、見やすいようにA4サイズの「光沢紙」に転写し交付いたします。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
断層写真 従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。
自筆の識別 ①・自筆の筆者の識別方法について
 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。

②・筆跡について
欧米では、筆跡の細部を検証するには人間の目ではなく、指紋の照合と同様アメリカではコンピューターが利用されております。資料として断層画像写真を出品欄に掲示しております。
寸法 「日本外史」原本の大きさ タテ23.2センチ ヨコ17.2センチ。額縁の大きさは、タテ37.0センチ ヨコ28.0センチ。額縁は新品です。周辺の白い線はストロボ撮影による光の反射光で傷ではありません。
解読文 出品した書は、「漢文体」であるため解読のために「原文の読み下し文・現代語訳文」(解読文)を作成し、平易に解読し読むことができるようにしております。
稀少価値 所蔵経緯
頼山陽(1780~1832)は、文化11年(1814)35歳のおり、京都の医者であった小石元瑞(1784~1849)の養女・梨影(りえ)を妻に迎えている。頼山陽は、小石元瑞の患者でもあった。小石元瑞は、仙台藩の侍医・大槻玄沢(1757~1829)に師事していた関係で、玄沢の次男・大槻磐渓(1801~1878)とも親しくしている。二人の交流は、頼山陽及び大槻磐渓両人の日記や著書に記されている。頼山陽の文政10年(1827)3月27日の日記(頼山陽46歳)には、「雨、大槻磐渓来訪」と記され、翌3月28日の日記には、頼山陽、大槻磐渓、小石元瑞ら18名で「夜桜」見物をしていることが記されている。
磐渓は、頼山陽と「夜桜見物」にでかけた時のことを次のようにその日記に記している。 「二十八日、新晴、二賴(山陽と杏坪)及び諸氏に陪して平野に遊ぶ。・・・晩桜乱発、落片雪の如く繽紛地に敷く。乃ち榻を花下に移し、張飲一場、頽然、皆酔ふ。日暮に及び、花下の茶肆、各々数十の毬燈を以て之を枝に掛く。遠近映発して煌々昼の如し。」磐渓は、頼山陽との交流を格調高い文体で書き残している。こうした交流から大槻磐渓は、「日本外史」の原稿本を入手し、精密な「楷書体」で書き写している。磐渓は、「日本外史」を出版本ではなく、手書きによって書き写したのは、尊敬する頼山陽の業績を自らの手で確認したいとの思惑があったのではないかと考えられる。資料として大槻磐渓の「落款」を画像で掲載した。
「緒方洪庵の旧所蔵」
自筆上部に緒方洪庵の所蔵を示す「適々齋」の落款(印譜)があります。旧所蔵者を示す落款により緒方洪庵自身が所蔵し、大切に読みこなしていたことをうかがい知ることができます。緒方洪庵は、大阪大学の前身・適塾を創設しております。緒方洪庵は、文化7年(1810)7月14日生~文久3年(1863)6月10日没。
「日本外史」の外国語訳版では、
「NIKHON GAISI」V.M.Mendrin,1915,Vradivostok.
があります。外国での展示に際し、上記「NIKHON GAISI」の表記ではなく、日本の国外における表記に準じ、「NIHON GAISHI」と表記しております。
なお、アーネスト・サトウは、明治5、6年頃「The Japan Mail」に「日本外史」の英訳を載せております。そのノートは、ケンブリッジ大学アストン文庫に残っております。
出品した「日本外史」の書は、小さな断片です。このような断片を「古切」といいます。 頼山陽の自筆原本の多くは、頼家のある広島市が昭和20年の原爆投下によってその大半が焼失したため、爾来、出品者宅においても厳重に保管されておりました。「日本外史」は、元来、大槻磐渓の書として冊子や巻子(かんす)で伝えられたものが、鑑賞用として「茶人」の好みにより鑑賞用として「茶会」用の「掛軸」、或いは屏風に仕立てられるようになりました。これを「古切」といいます。

 国内における所蔵先等
出品作品と同じ「日本外史」の写本は、国立国会図書館(村瀬秋水・写)、東京大学、京都大学、大阪府(1冊のみ)など8箇所にあります。「国書総目録」第6巻379頁(岩波書店・刊)出品作品は、所蔵経緯、来歴が明確であるため極めて希少価値の高いものです。
HP 出品者の家で所蔵している頼山陽の「日本外史」を大槻磐渓が記した自筆(直筆)の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をぜひご覧ください。

ツイッターは「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。


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