徳川家康の軍、天正八年(1580)三月に高天神城、五月に田中城を攻撃し武田軍を打ち破る・大槻磐渓・自筆「日本外史」緒方洪庵・旧蔵18Bの商品情報

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    23,000円
    入札単位
    500円
  • 数量
    1個
    商品状態
    美術品(額縁は新品)
  • 開始日時
    2018年2月15日 19時8分
    終了日時
    2018年2月18日 21時5分
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商品説明

頼山陽「日本外史」大槻磐渓・直筆(自筆)緒方洪庵・旧所蔵

(額縁は新品です。自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)

《徳川家康の軍、天正八年(1580)三月に高天神城、五月に田中城を攻撃し武田軍を打ち破る》

原本上部に「適々斎」の落款が見えます。
「適々斎」は緒方洪庵の号です。

額縁裏面ラベルの「NIHON GAISHI」は、アメリカの大学など
海外示のための「仕様基準」に基づき表記されたものです。
「NIKHON GAISI」(V.M.Mendrin,1915,Vradivostok.)の訳もあります。

「額縁入自筆原本」



「自筆原本」

自筆の所蔵来歴及び国内所蔵数については下記に記載

頼山陽と親しい仙台藩の大槻磐渓が書き写した「日本外史」の自筆・原本です。

「日本外史」は、大槻磐渓・自筆の「楷書体」で記されております。大槻磐渓の一幅の書の市場実勢評価額は85万円です。(下記に美術年鑑評価額の写しを掲示)「日本外史」の著者・頼山陽は、大槻磐渓の最も尊敬する師であったため、「日本外史」を「草書体」ではなく、丁寧な「楷書体」で渾身をこめて書き上げたところに磐渓の丁寧さと几帳面さとをうかがい知ることができます。
海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。

出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。上から3番目の写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の優れた技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。

(Ⅰ)・出品した原本の「原文の読み下し文」は次の通りです。

《「日本外史」徳川氏・正記》
《我れ其の弊に乗ぜば、》・・・・・必ず利あらん」と。忠次(ただつぐ)をして、留りて瀬戸に陣せしめ、而(しか)して進んで田中城を過ぎ、持舟(もちふね)を攻めて之を抜き、火を縦(はな)ちて由井(ゆい)に至る。
勝頼、兵を引きて来り迎う。氏政敢て尾(び)せず。少将(徳川家康)、之を逆(むか)え撃たんと欲す。諸将諫(いさ)めて曰く、「勝は必ず可からず。而(しか)して敵城、背(うしろ)に在り」と。乃ち還る。忠次、殿(しんがり)となる。
十一月、松平家忠、兵を滝坂(たきざか)に伏せ、甲斐の兵を撃破す。
八年(一五八〇)正月、少将(徳川家康)、従四位上に進む。
三月、高天神(たかてんじん)を攻め、砦(さい)を連ねて之に逼る。五月、田中を攻め、侵掠(しんりゃく)して還る。持舟の兵出でて之を躡(じょう)す。
返り戦いて犬に之を破る。七月、復た田中を攻む。岡田元次曰く、「天将に雨ふらんとす。大井必ず漲(みなぎ)らん。請う、速かに兵を収めよ」と。
少将(徳川家康)乃ち河を済(わた)りて還る。其の夜果して雨ふる。勝頼、我の田中を攻むるを聞き、疾・・・・・《駆(しっく)して至る。》

(自筆漢文の「解読文の作成」は出品者)


(Ⅱ)・出品した原本の「原文の現代語訳文」は次の通りです。


《「日本外史」徳川氏正記 徳川氏二》
《徳川家康の軍、天正八年(1580)三月に高天神城、五月に田中城を攻撃し武田軍を打ち破る》
《(徳川家康)「約束に背くわけにいかぬ。また、二人が対陣しているのだ。われがその弱昧につけ込んだら、》・・・・・・きっとうまくいくことだろう」と。
酒井忠次を瀬戸に留まって陣取らせ、自分は進んで敵の田中城を通り過ぎ、持舟を攻めて陥れ、火を放ちながら由比まで行った。
武田勝頼が兵を引き連れてきて迎え撃ってきた。
北条氏政はあえてこれを背後から追ってはくれなかった。徳川家康はこれを迎え撃とうとした。諸将が諌めていうには「必ず勝つとは限りません。それに、敵の城(田中城)が背後にあります」と。そこで引き返した。酒井忠次が殿になった。
十一月、松平家忠が滝坂に伏兵を設けて、武田軍を撃ち破った。
天正八年(1580)正月、徳川家康は従四位上に進んだ。
[高天神城を再び攻める]
三月、高天神城を攻め、砦を並べ連らねて迫った。
五月、田中城を攻め、侵して掠めて帰った。持舟の兵が出て来て、そのあとをつけて来た。わが軍は引き返して戦い、大いにこれを破った。
七月、また再び田中城を攻めた。岡田元次がいうには「この天気では大雨になりそうです。すると、大井川は必ず増水します。どうぞ、すぐ軍を引き収めて下さい」
そこで徳川家康は大井川を渡って引き返した。その夜、思ったとおりに雨が降った。
武田勝頼はわが軍が田中城を攻めると聞いて、馬を・・・・・・《飛ばしてやって来た。》

現代語訳の出典・「日本外史」
訳・頼惟勤・お茶の水女子大学名誉教授(1922~)

「自筆の断層(MRI)写真」


(断層画像MRI-19-18-B)

「原本の落款及び大槻磐渓の評価額」

写真左は、奥付の大槻磐渓の落款。右上はその拡大写真
右下の写真は、大槻磐渓の書の評価額(一幅)「美術年鑑」

「額縁裏面のラベルの表示」

海外展示の際、額縁の下に断層写真が掲示されます。
日本では断層写真による掲示の事例がないため、国内
展示用に準拠し、額縁の裏面に下記ラベルを貼付します。




頼山陽「日本外史」大槻磐渓・自筆(直筆)を出品
商品説明 頼山陽と親交があり、また尊敬をしていた仙台藩の大槻磐渓の筆になる「日本外史」の古切です。「古切」は、「断簡」とも言います。
貴重な大槻磐渓・筆「日本外史」の古切を身近なものとして鑑賞することができます。
自筆 自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「日本外史」の文字が記されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。落札後には、見やすいようにA4サイズの「光沢紙」に転写し交付いたします。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
断層写真 従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。
自筆の識別 ①・自筆の筆者の識別方法について
 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。

②・筆跡について
欧米では、筆跡の細部を検証するには人間の目ではなく、指紋の照合と同様アメリカではコンピューターが利用されております。資料として断層画像写真を出品欄に掲示しております。
寸法 「日本外史」原本の大きさ タテ23.2センチ ヨコ12.2センチ。額縁の大きさは、タテ37.0センチ ヨコ28.0センチ。額縁は新品です。周辺の白い線はストロボ撮影による光の反射光で傷ではありません。
解読文 出品した書は、「漢文体」であるため解読のために「原文の読み下し文・現代語訳文」(解読文)を作成し、平易に解読し読むことができるようにしております。
稀少価値 所蔵経緯
頼山陽(1780~1832)は、文化11年(1814)35歳のおり、京都の医者であった小石元瑞(1784~1849)の養女・梨影(りえ)を妻に迎えている。頼山陽は、小石元瑞の患者でもあった。小石元瑞は、仙台藩の侍医・大槻玄沢(1757~1829)に師事していた関係で、玄沢の次男・大槻磐渓(1801~1878)とも親しくしている。二人の交流は、頼山陽及び大槻磐渓両人の日記や著書に記されている。頼山陽の文政10年(1827)3月27日の日記(頼山陽46歳)には、「雨、大槻磐渓来訪」と記され、翌3月28日の日記には、頼山陽、大槻磐渓、小石元瑞ら18名で「夜桜」見物をしていることが記されている。
磐渓は、頼山陽と「夜桜見物」にでかけた時のことを次のようにその日記に記している。 「二十八日、新晴、二賴(山陽と杏坪)及び諸氏に陪して平野に遊ぶ。・・・晩桜乱発、落片雪の如く繽紛地に敷く。乃ち榻を花下に移し、張飲一場、頽然、皆酔ふ。日暮に及び、花下の茶肆、各々数十の毬燈を以て之を枝に掛く。遠近映発して煌々昼の如し。」磐渓は、頼山陽との交流を格調高い文体で書き残している。こうした交流から大槻磐渓は、「日本外史」の原稿本を入手し、精密な「楷書体」で書き写している。磐渓は、「日本外史」を出版本ではなく、手書きによって書き写したのは、尊敬する頼山陽の業績を自らの手で確認したいとの思惑があったのではないかと考えられる。資料として大槻磐渓の「落款」を画像で掲載した。
「緒方洪庵の旧所蔵」
自筆上部に緒方洪庵の所蔵を示す「適々齋」の落款(印譜)があります。旧所蔵者を示す落款により緒方洪庵自身が所蔵し、大切に読みこなしていたことをうかがい知ることができます。緒方洪庵は、大阪大学の前身・適塾を創設しております。緒方洪庵は、文化7年(1810)7月14日生~文久3年(1863)6月10日没。
「日本外史」の外国語訳版では、
「NIKHON GAISI」V.M.Mendrin,1915,Vradivostok.
があります。外国での展示に際し、上記「NIKHON GAISI」の表記ではなく、日本の国外における表記に準じ、「NIHON GAISHI」と表記しております。
なお、アーネスト・サトウは、明治5、6年頃「The Japan Mail」に「日本外史」の英訳を載せております。そのノートは、ケンブリッジ大学アストン文庫に残っております。
出品した「日本外史」の書は、小さな断片です。このような断片を「古切」といいます。 頼山陽の自筆原本の多くは、頼家のある広島市が昭和20年の原爆投下によってその大半が焼失したため、爾来、出品者宅においても厳重に保管されておりました。「日本外史」は、元来、大槻磐渓の書として冊子や巻子(かんす)で伝えられたものが、鑑賞用として「茶人」の好みにより鑑賞用として「茶会」用の「掛軸」、或いは屏風に仕立てられるようになりました。これを「古切」といいます。

 国内における所蔵先等
出品作品と同じ「日本外史」の写本は、国立国会図書館(村瀬秋水・写)、東京大学、京都大学、大阪府(1冊のみ)など8箇所にあります。「国書総目録」第6巻379頁(岩波書店・刊)出品作品は、所蔵経緯、来歴が明確であるため極めて希少価値の高いものです。
HP 出品者の家で所蔵している頼山陽の「日本外史」を大槻磐渓が記した自筆(直筆)の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をぜひご覧ください。

ツイッターは「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。


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