旧品Ed Meier対応SIZE;ジョンロブ8695 6-6.5,オールデン990 6.5-7,エドワードグリーン6-6.5,パラブーツ6-6.5,jm westonウエストン641 6-6.5の商品情報

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    中古
  • 開始日時
    2018年9月17日 21時15分
    終了日時
    2018年9月24日 23時24分
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商品説明



今回の終了日時は、日曜日ではなく、9月24日(月曜日)となります。ご注意ください。



タイトル中参考サイズとして、定番モデルやラストから、この出品靴のサイズ感に近いものを挙げています。

あくまでも参考になりますので、詳細につきましてはご質問頂けますと幸いです。

なお、健康上の理由やコレクション目的等で、幅広いサイズの靴を所有しておりますので、その他の出品も是非ご覧ください。




―― コレクションを手放し、思想を残す。



わたしは、著作家・元スタイリストの革靴収集家でございます。


約50年世界を巡り、ストックは1,200足。


世界最高峰の靴職人たちの技術・情熱が、何十年もかけて結晶した我がコレクション。


これを残したまま、この世を去るわけにはいかない。


朽ちさせるわけにはいかない。


そして私は、そこにコレクターとして関わってきた人間として、"結晶" への想いを残さねばならない。



『コレクションを手放し、思想を残す。』


これが私の"終活"。


お付き合い頂けますと幸いです。


なお、現在日本で買えない靴(特にオーダー、ビスポーク、ヴィンテージ)を中心に出品致します。


皆様と同じ立場、履き手の立場の人間だからこそ出来ることを精一杯やりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。










































エドワードマイヤーの旧フルハム。





東欧のダイヤモンド



英国注文靴の繊細な美しさは、われわれを惹きこむが、それは壊れやすく実に華奢なものだ。


例えば、あなたがTUCZEKを履いて街を歩いている時、石畳の向こうに綺麗な一輪の花を見つけたとしよう。


果たしてそれを履いたまま、花を摘みに行けるだろうか。



この出品靴は、エドワードマイヤーの旧フルハム。


かつての私は、英国注文靴に惹かれながらも、それらが持つ弱さに心理的負担を覚え、100%の満足、100%の愛を感じられなかった。


TUCZEKが持つ繊細さと花を摘みにいける強さは同時には実現し得ないと諦め、英国注文靴を甘んじて受け入れていた。


英国の高級靴は貴族の靴を源流とし(詳細は後述する)本来街中を歩くための靴ではないため、華奢であっていい、弱くあっていいのだ。


だが、われわれは、それが真に良い靴であればあるほど、それを履いて出掛けたくなるものだ。



英国注文靴に惹かれながらその弱さに嘆く靴好きを救済し、東欧靴界に引き込んだ作がこの旧フルハムと言っていい。


彼らは皆、サイズ違い、細かな仕様違いで、旧フルハムを揃えたものだ。


旧フルハムはその繊細な美ゆえに、TUCZEKのような注文靴が想起され、一見すれば壊れやすく華奢にも思える。


だが、これは東欧靴界最高峰のエドワードマイヤー。


彼らこそ、ドレス・タフネス・コンフォートを同時実現する三位一体の靴哲学具現者の重鎮であり、そこから生まれた逸品であるが故、英国注文靴とは一線を画して、強い。


喩えるならば、ダイヤモンド。





『有形価値愛好家たちがマクロ創造する東欧世界から』(第1回)



いま、世界的に東欧靴が注目されている。

日本でもディンケラッカーが注目されはじめ、アメリカでは靴貴族たちがこぞってVASSを集めている。

大量生産の波が押し寄せてアメリカ靴が衰退しきった80年代にも、その品質の高さ故に東欧靴は注目されていた。

しかし、当時はまだ英国靴を代表とする西欧勢も品質が高かったため、今ほどその実力は目立っていなかった。


だが、後述する社会変化(無形価値愛好家増加とメディアの発達を発端とする『価値ピラミッド』の形成)によって、西欧勢の品質が軒並み低下し、それが東欧靴の品質の高さを浮き彫りにした。

東欧靴は元来、圧倒的品質を誇るが、他の衰退故に、唯一クオリティを維持し続ける東欧靴を『現代高級靴の最高峰』とするのが一般的である。


この一般的見解に従い、メディアではバリント、マテルナといった "記号" が浮遊する一方、この一般的見解の背景を論理立てて解説したものはない。

私の周りにいる靴コレクター達や作り手達の考えと私の考えを整理する形で、初めてその詳細を解説し、その議論を如実に象徴する作品をセレクト致しました。

このコラムにおいて出品する靴は5点あるが、前半・後半で分割し、二週に渡って出品したい。


日頃より私の出品ページをご覧頂いている方々は有形価値愛好家である。

よって、ともすれば、これから議論することは個人的な行動・考え方というミクロなレベルでは実感が湧かない内容かもしれません。

後述するサイレントマジョリティや、イメージで支配された大衆には該当しないだろう。


しかし、われわれ有形価値愛好家は、マクロレベルでの行動を意識する必要が出てきた。

その意味で、有形価値愛好家にとって重要な議論となる。

そして、マクロレベルでの行動を意識するにあたっては、東欧世界に学ぶべきだ。


今回のコラムでは、なぜ東欧以外の革靴界が衰退してしまったかについても詳しく議論している。

これはコレクターや職人の革靴への "愛" から生まれるものであり、これを受け入れることが靴界の今後をより良いものにするためには必要です。

最後の【あとがき】まで目を通していただけますと幸いです。

非常に長い文章で一読では分からない箇所も多々あるかと存じますが、最後までご覧頂ければご理解頂けるよう工夫致しました。






長期マクロ創造と、その失敗。



『長期マクロ創造』とは何か。

『長期マクロ創造』に失敗する要因は何か。

『長期マクロ創造』に失敗すると、私やあなた様が、どう困ってしまうのか。

この節では、以上のことを議論致します。




● 一般則



各勢力が拮抗している場合を除いて、何千万何億のうちの1人の影響力は僅少である。


そこで誰しもが『自分1人が投票してもしょうがない』と考え、当事者意識を欠き、サイレントマジョリティが出来上がる。


また、強い権力は、サイレントマジョリティに属さない者に対しては、巨大資本と一体となって、イメージによるプロパガンダで誘導しようとする。


例えば、スキャンダルを芸能ニュースで掻き消すといったことも、日常的に行われる。



サイレントマジョリティの一員であれば、知らないうちに、将来の自分に不都合な決定がなされているかもしれない。


また、イメージで支配された大衆の一員であれば、世界が本当の自分(支配されていない状態の自分)にとっては最悪の状態になっているかもしれない。


強い権力と巨大資本は、自分達に都合の良い世界を作るべく、全体をサイレントマジョリティとイメージに支配された大衆でカバーしきることを目指す。





● サイレントマジョリティの一員になるとき



プレジョンロブCLアードリジのページに再掲した 『限りなく幻に近い有形価値財コレクション』において、あらゆる製品が "スーパーブランドクオーツ化" しつつあることを述べ、高級靴もその流れのなかにあると述べている。


ともすれば、これはメーカー主導で行われたことで、消費者には何らの責任がないと考えてしまうかもしれない。


世界各国の至るところで『昔の革靴は良かった、いまの革靴は悪くなった』と嘆かれるが、その嘆きには大抵、当事者意識が欠如している。



ある製品を購入したとき、それは、製品に関わる営利企業(生産者・流通業者)に対して、『票を投じる』ことを意味する。


売り場に同種製品が複数あるなかで、そのなかの1つに『票を投じる』のである。


そして、営利企業は得票数が多くなるものを売り場に陳列しようとする。



われわれの行動が製品の在るべき姿を決め、ひいては営利企業の在り方を決めると言えよう。


つまり【a 消費者の在り方 → b 消費者が好む製品の在り方 → c 営利企業の在り方】というモデルを描ける。


われわれ消費者は、営利企業とともに売り場を作っている当事者なのだ。


この当事者としての自覚がないとき、われわれはサイレントマジョリティの一員になりうる。





● イメージに支配された大衆の一員になるとき


ジョンロブCL期アードリジのページに再掲している『限りなく幻に近い有形価値財コレクション』の第一節『メディア発達後の購買行動とそれに親和的な経営判断』をご参照ください。

それを踏まえて、以下の議論に進みます。




『メディア発達後の購買行動とそれに親和的な経営判断』は、高度に発達したメディアを駆使して、営利企業が消費者の在り方を変えることに経営判断上の重要性が移ったことを意味する。


いまの世界では、革質を徹底的に落として表参道に旗艦店を作る判断(製造原価を削減して、販管費を増大させる判断)が、営利を追求する上では優れている。


表参道に旗艦店があるという同じ事実でも、今と昔で、その事実が生む効果は同じではなく、その効果はどんどん高まっている。


数人が旗艦店に行ったことを報告するポストをSNSで拡散させれば、何千人何万人が表参道に旗艦店がある事実に触れることになるからだ。


かつてこの事実は、店舗に実際に訪れた人のみに影響し、事実の効果はほぼ1対1だったが、今では1対多なのだ。


高級店が生み出すバイアスを持たせてから(消費者の在り方を変えてから)売り場にきてもらうことが容易になり、それが営利追求上、重要になった。(詳しくは後述する)


だから、90年代までは単なる工場に過ぎず自社の名前を前面に出していなかった靴屋が、一等地に店舗を作っているのだ。


品質を落とし、その製造原価を削減した分の資金で。



目が肥えている消費者が居て、彼らが好む製品が存在し、それに該当する製品を営利企業(生産者・流通業者)が陳列するという世界は終わった。


営利企業がイメージの刷り込みによって、消費者の在り方をコントロールし、ひいては彼らが欲しがるもの(消費者が好む製品の在り方)をコントロールして、営利企業自身にとって都合が良いもの(安価に製造できるもの)を売り場に並べる世界になった。



このような議論をすると、前述の【a 消費者の在り方 → b 消費者が好む製品の在り方 → c 営利企業の在り方】というモデルが崩れたかのようにも思えるかもしれないが、そうではない。


生産者・流通業者が、営利を追求する以上、消費者が欲しがるものを作らねばならない事は、今も昔も変わらない。


つまり、モデル自体は普遍だ。


変わったのは、モデルの中身であるaとbの性質である。



かつては、aを営利企業が頑張ってどうこうできるものではなく、外生変数として考えるしかなかった。


よって、aに依存して決定するbも、営利企業にとっては、外生変数だった。


所与のaを分析し、そこから導かれるbを想定し、それに当てはまる製品を作っていた。


しかし、メディアの発達により、営利企業の側で、aに手を加えることが容易になり、ひいてはbを自分たちが作りたいもの(安価に製造できるもの)に変えてしまうことが可能になった。


すなわち、【a 消費者の在り方 → b 消費者が好む製品の在り方 → c 生産者・流通業者の在り方】というモデルはいつの時代も成立するが、営利企業がモデル全体を自分たちに都合よく作り上げるようになったのである。


このことに無頓着で、イメージによってバイアスを植え付けられていることに無自覚ならば、われわれは支配された大衆の一員になりうる。





● 長期マクロ創造



消費者は、何かを買い、あるいは何かを発信し(例えばSNSやリアルでの口コミによって、何かをすすめることで)『票を投じる』


それに対して、営利企業が製品や広告で応じる点で、消費者は間接的に売り場を創造しているのだ。


貴方様の取った一つの行動、私の取った一つの行動、それは投票箱に投じる一票と同じように、当初は微々たる影響力しかないが、それが積み重なって、じわじわと売り場やメディアを変化させ、いつか貴方様や私以外の全ての人々に影響を与える。


この創造は、自室内で私が日々コレクションに対して行っている有形価値創造(その影響が私にしか及ばない点でミクロ的だ)と比較して、長期マクロ的だ。



われわれが日々、『票を投じる』ことで、長期マクロ創造を行っていることは今も昔も変わらない。


しかし、大きく変わったことが2つある。


第一に、購買行動を取る前に、情報発信する前に(つまり長期マクロ創造を行う前に)営利企業から知らず知らずのうちに、強力なイメージの刷り込みを頻繁に受けるようになった。


第二に、かつては情報発信は『票を投じる』手段として主ではなかった(リアルでの口コミしかなかったため)が、今や個人が不特定多数に発信することが容易になり、情報発信が購買行動と同じく『票を投じる』手段として主になった。


そして、いまでは、イメージの刷り込みを受けた状態の人々が情報発信し、それによってイメージを刷り込まれた人々が別の人々にさらにイメージを刷り込む、という具合に創造が行われるため、第二の変化が第一の変化の影響を強化している。


その結果、普段何気なく眺めている媒体には、パワーブランドが生み出したイメージで溢れかえるようになった。


初見では "オジサン靴" と思ってしまうような靴でも、大勢の人間がSNSや雑誌で騒いで『票を投じ』イメージを刷り込むと、なぜか急に欲しくなってしまう。(イメージを刷り込まれていない人にとっては相変わらず "オジサン靴" であり続けるが。この温度差が実に大きい時代になった)



ある人が、製品を買うことや情報の発信によって、長期マクロ創造を行っていることに無自覚ならば、彼はサイレントマジョリティの一員である。


そして、ある人が、刷り込まれたイメージによってバイアスを持った状態で、購買行動を取り情報発信するなら、彼はイメージで支配された大衆の一員である。





● 無自覚に、バイアスを持ったまま、長期マクロ創造を行ったとき。



【a 消費者の在り方 → b 消費者が好む製品の在り方 → c 生産者・流通業者の在り方】のモデル全体を、営利企業が自分たちに都合よく作れる世界で...


・当事者意識を失ったまま、ものを買ったり、情報を発信したらどうなるか? (長期マクロ創造を行っていることに無自覚ならどうなるか?)

・何も考えない状態で、あるいは考えているつもりの状態で、ものを買ったり、情報を発信したらどうなるか? (イメージによってバイアスを植え付けられたまま、長期マクロ創造を行っていたらどうなるか?)



まず問題は、自分のワードローブで起きる。


論理を欠いた単なるイメージによる支配から目を覚ましたとき。


そんなとき、自分のワードローブを見直すと、心から良いと思えるモノがないと気付く。


ブームのときに一生懸命お金を貯めて買ったものが、『断捨離』と称しゴミにされる光景は日常茶飯事だ。


いまやインポーターと小売業者が一生懸命、オールデンのイメージの刷り込みを行っているが、それはプリマクラッセのボストンバックのようにならないのだろうか。


夢のなかで宝石だったものは、夢から覚めたときには、石ころになっているかもしれない。

もちろん、オールデンがダメと言っているのではありません。私が愛用する靴のなかには、オールデンのものもあります。



この『石ころ化』はミクロ的な問題だ。


自分のワードローブにあるもの(ミクロの世界にあるもの)が、宝石ではなく実は石ころだったという問題だ。


しかし、問題はマクロレベルに及ぶ。



サイレントマジョリティの一員であれば、知らないうちに、将来の自分に不都合な決定がなされているかもしれない。


また、イメージで支配された大衆の一員であれば、気付かないうちに、世界が本当の自分にとっては最悪の状態になっているかもしれない。



目を覚ました貴方は、心から良いモノを探すため、本当の宝物を探すため、売り場に出かける。


しかし、その時には、この世から宝物になれるものが消えているかもしれない。


知らないうちに認可されていた政策がいつか自分を苦しめうるように、気付かないうちに最悪の売り場が出来上がっているかもしれないのだ。


それは、宝石のイミテーションの石ころが並んでいるだけの売り場だ。


ワードローブというミクロの世界だけではなく、売り場全体というマクロの世界に問題が及んでいるのだ。


売り場に良いモノがなければ、当然、自分のワードローブにも良いモノを並べられない。


そうなれば絶望しかない。


過去を知っている古参の靴好きは、現に絶望している。

(長期マクロ創造の失敗)




以上の議論からは、私が懐古主義者で『昔はよかった』と主張したがっているかのように感じられるかもしれません。


あるいは、反資本主義、反体制と感じられるかもしれません。


しかし、そうではなく、私の想いはもっとシンプルなのです。


私が、そしてあなた様が、心から良いと言い切れるものが確実に存在している世界を愛しているだけなのです。


父親にもらった野球グローブを抱く子供のように、みんなが自分だけの宝物をもっていてほしいのです。





無形価値愛好家と、現代営利企業で作るイミテーションで溢れた世界



前節の内容は、主に個人が直面する問題にフォーカスした議論です。

論理ではなくイメージ先行の現代では、私たち一人一人が注意しないと、ミクロレベルでも、マクロレベルでも、自分自身が困ります。

だから、みんな各々気を付けようというお話でした。

この先は、フォーカスをもっと広げ、いかなる人が長期マクロ創造に失敗し、そんな人が増えると、社会全体がどうなるのかといったお話をもう少し詳しく述べます。




● 有形価値と無形価値



有形価値とは、製品そのものの良さで測られる価値であり、製品に使われる素材の良し悪しや、その素材を組み上げる際の技術の巧拙のみによって決定する価値である。


無形価値とは、製品の価値を構成する価値のうちで有形価値以外のすべての価値であり、いわゆるブランド価値(それを持っていることによって得られる社会的信用やステイタス)がその典型である。


ここでまた、プレジョンロブCLアードリジのページに再掲している『限りなく幻に近い有形価値財コレクション』内の『 WAMのセレクト、100%の幸せに向かって』を参照してほしい。


この参照部分では、本来的には製品の価値とは有形価値のことを指していたが、やがて無形価値が生まれ、そこから発展して有形価値と無形価値に2分できるようになったことを議論している。



名もなき芸術家が書き上げた幾何学模様と、ルイヴィトンのモノグラム。


これを全く同じ白い無地Tシャツにプリントする。


今の日本社会では、当然後者をプリントしたTシャツの方が人気になるだろう。


つまり、今の日本社会においては、名もなき芸術家が書き上げた幾何学模様のTシャツよりも、ルイヴィトンのTシャツのほうが価値が高いとされる。


この2者の価値の差分こそが、無形価値である。





● 2つの価値を測る物差し



だが、この2つのTシャツを、ジャングルの奥地で暮らす人々の前に持って行ったとき、必ずしも、後者の方が人気になるとは言えない。


つまり、日本の社会でルイヴィトンのTシャツが持つ無形価値は、ジャングルの奥地ではゼロになる。


日本の社会で、ルイヴィトンのモノグラムをプリントしたTシャツの方が高価格で売れるのは、『ルイヴィトンは高いものだ』『ルイヴィトンを持っている人はお金持ちだ』と人々が思っているからだ。


つまり、無形価値財が、全く同じ品質の他の製品よりも高い価値を持つためには、社会的に作られた尺度がマストになる。


いわゆるブランド品(無形価値財)の価値は、社会の在り方に依存するのだ。


無形価値は、常に社会に依存している。



われわれがジャングルの奥地で暮らす先住民の一人だったとしよう。


当然、われわれはルイヴィトンを知らない。


そこで、名もなき芸術家が書き上げた幾何学模様のTシャツと、ルイヴィトンのTシャツを目の前に出されたならば、どちらを選ぶか?


この時、われわれは、そのデザインを自分の目で確かめ、どちらが美しいのかを自ら考える必要がある。


名もなき芸術家の仕事と、ルイヴィトンのモノグラムを発案した者の仕事で、どちらの仕事が優れているのかを、自分の頭の中にある尺度で判断するのだ。


その判断をし、一方を選んだとき、それはもう一方よりも有形価値が高いということになる。



無形価値においては、その価値測定の物差しは、自分の頭のなかではなく、社会のなかにある。


有形価値においては、その価値測定の物差しは、自分の頭のなかにある。


有形価値は、個人的な尺度によって規定されるものだが、無形価値は、社会的な尺度で規定されるものである。



ある人が、無形価値を追い求める無形価値愛好家であれば、彼の頭のなかには独自の物差しがない。


本人は自分独自の物差しがあると信じているかもしれないが、その物差しは社会にある物差しをそのままコピー&ペーストしたものにすぎない。





● 現代の営利企業の必勝パターン



数万円で売られるスーパーブランドのTシャツの本体(モノグラムをプリントする前のTシャツ)は、2000円で買えるTシャツと同じである。


製品価格というのは、製造原価(材料費、工場で働く工員の賃金、その他工場の運営にかかるコスト)、販管費(広告宣伝費、販売店を運営する際にかかる店員の給料や、店舗の賃貸料など)、そして企業の利潤の合計である。


スーパーブランドのTシャツと、2000円のTシャツは、製品価格の第一の要素である製造原価は等しく、第二の要素である販管費が大きく異なる。



スーパーブランドのTシャツを売りたい企業は、何千万円もかけて六本木ヒルズや雑誌にでかでかと広告を打ち出し、世界の一等地に沢山旗艦店を構える。


こういった販管費が重いため、スーパーブランドのTシャツは高価になる。


無形価値財(無形価値が高く、まったく同じ品質の同種製品よりも高額で取引される製品)は、販管費を多分に含むのだ。


つまり、無形価値は、販管費への投資(広告宣伝への投資、つまりイメージへの投資)によって作るものだ。



まったく同じイメージ(六本木ヒルズの広告や、一等地に旗艦店がある事実など)でも、かつての世界(メディアが未発達の社会)に対してよりも、いまの世界(メディアが発達した社会)に対してのほうが、効果が高くなることは前節で述べた通りだ。


そして、その効果は、ますます高くなっていく。


すると、製造原価投資を渋って(製品の品質を落として)その分をイメージの作成・拡散に充てる経営判断の方が利益効率が高くなりやすい。


つまり、現代で営利を追求するなら、無形価値を高めて有形価値を抑えた製品(安価に作れるが、高く売れる製品)を売り場に並べるのがセオリーになる。


イメージを植え付けることによって上がる売り上げ数は、品質を落とすことによって下がる売り上げ数を大きく上回る。

※ 以上の議論についても『限りなく幻に近い有形価値財コレクション』で詳細に議論しています。



現代における製造業の強者の必勝パターンはこうだ。


資金を、効率がどんどん高まるイメージ投資(イメージの作成・拡散のために資金を使うこと)に充て、圧倒的で強い物差しを社会に作り上げる。


その物差しによって、独自の物差しを持たない無形価値愛好家に対しては、五感による判定(製品の良し悪しの判断)にバイアスを作り出すことができる。


バイアスを植え付けた後で、安価に作れる製品を提示すればいい。


つまり【a 消費者の在り方 → b 消費者が好む製品の在り方 → c 生産者・流通業者の在り方】のモデルでaを変えた後、無形価値を高めて有形価値を抑えた製品(安価に作れるが、高く売れる製品)を提示する。


販管費に属するイメージ投資への資金源は、削減した製造原価だ。





● 無形価値愛好家が、無自覚に、バイアスを持ったまま、長期マクロ創造を行う。



有形価値愛好家は、価値測定の物差しを自分の頭の中に持つ。


しかし、無形価値愛好家は、価値測定の物差しを自分の頭の中に持たない。


有形価値愛好家は、2種類のTシャツの柄の良し悪しを自分の目で確認するように、ネームと無関係に、質が高いものに価値を見出す。


しかし、無形価値愛好家にとっては、ほとんど同じ靴でも、そのネームが、例えばオールデンなら価値が高くなる。



ブランドランクが高いものであれば、革質が高い、仕事のレベルが高いと彼らは信じ込んでしまう。


雑誌や他の無形価値愛好家たちが騒げば、その革質や仕事のレベルが高いと彼らは信じ込んでしまう。


自らの頭の中に物差しを持たないために、無形価値愛好家は、ひたすらその社会的物差しに従う。


自らは何も考えない状態で(あるいは考えているつもりの状態で)購買行動を取り、情報発信する。



喩えるなら、"最後尾にいる羊" だ。


群れの最後尾にいる羊は、自分がどこに向かっているのか知らないらしい。



無形価値愛好家は、強者がイメージ投資で作りあげた社会的物差しに従う点で、イメージで支配された大衆である。


営利企業の手足になって、共に市場を盛り上げている意識もないから、サイレントマジョリティでもある。


彼らは、無自覚に、バイアスを持ったまま、長期マクロ創造を行う。





● 社会が無形価値愛好家ばかりになったとき、売り場には価値ピラミッドが完成する。



前述の現代の営利企業の必勝パターンのなかで、社会が無形価値愛好家ばかりになった時。


まず、経済力のある "羊" が、ある特定の人気商品、もしくはその失敗作(特に革靴では個体差が大きいのだが、日本の市場に回って来る個体は、品質が劣るものが多い。これはネームだけを借りた "失敗作" と言える)に群がる。


次に、あぶれた "羊" のために、営利企業が、その人気商品に似た別の商品を作る。


さらに、そこからもあぶれた "羊" に向けて、価格と品質をさらに落とした代替品を作る。



結果として、ピラミッドが透けて見える売り場が完成する。


頂点の商品とその権威を借りた失敗作や、それを模倣した代替品で溢れる売り場になる。


人気商品も品質の高さ故に人気になるのではなく、価値ピラミッドの頂点故に人気となるため、出来の悪い個体でも高値で取引されることになる。



こういったブランド価値に甘んじている製品も、人気商品の代替品も、すべてイミテーションだ。


無形価値愛好家が多いほど価値のピラミッドは大きく強くなり、売り場は、イミテーションで溢れかえることになる。





● 価値ピラミッドの破壊と再建築。



営利企業(生産者・流通業者)は、イメージの作成・拡散に当てた投資資金を回収し、十分な利益を上げれば、また別の物差しを作り始める。


定期的に物差しを壊し、再度物差しを作るのだ。


09年頃にはトリッカーズをこぞって推していたセレクトショップも、いまではパラブーツやオールデンに舵を切っている。


あの頃、トリッカーズを価値あるものとする社会的物差しに従ってトリッカーズを買っていた無形価値愛好家は、いまはオールデンとパラブーツを価値あるものとする社会的物差しに従って、オールデンやパラブーツを買っていることだろう。


バブル期に盛り上がったプリマクラッセは、プリマクラッセを価値あるものとする社会的物差しが破壊され、数年後に大量に捨てられた。


ルイヴィトンを価値あるものとする社会的物差しも、いつ破壊されるか分からない。


靴ブランドとて同じことだ。



無形価値愛好家が多数いる社会では、強者の物差しの破壊と構築のサイクルに応じて、巨大な価値ピラミッドが破壊されては建築される。


売り場は、あるもののイミテーションで溢れ、数年ごとにそのイミテーションが入れ替わる。





宝物を失った西欧・アメリカ・日本の革靴界



無形価値愛好家こそが、無自覚にバイアスを持ったままマクロ創造する個人である。

そういった個人が集まり、彼らに対し、現代の営利企業の強者が社会的物差しを提示すると、価値ピラミッドができる。


価値ピラミッドは売り場をイミテーションで溢れさせるが、その元である物差しが破壊と建築を繰り返すため、ピラミッドも破壊と建築を繰り返す。

したがって、数年ごとに、イミテーションが入れ替わる売り場になる。


以上が前節の要旨ですが、これは先進国の色んな製品の市場にあてはまることです。

スマホやパソコンの売り場でもアップル製品を模した製品で溢れていることから実感が湧きやすいと思います。

この社会全体の在り方は、実は革靴界にこそ、最も強くあてはまります。

この節では、その点を詳しく議論いたします。





久しぶりに東京中の靴売り場を巡ると、現代日本の靴界には、これまでにないほど大きく強い価値ピラミッドがあった。


オールデン、パラブーツ、ウエストンのゴルフや、グリーンのドーバーなどを頂点とする価値ピラミッドである。


セレクトショップオリジナル商品はもちろん、国産ブランドや新興国ブランドのモデルが、どんどんこういった人気モデルを少しずつ模したものになっている。


グリーンのドーバーと仕様はもちろん、靴箱やインソックまで模倣する国産メーカーすらある。


そして人気モデルたちは、その "頂点" にあるが故、本国のものと比べると出来の悪い個体でも、売り場に並んでいる。


店員の接客に耳を傾ければ、『この靴は某モデルや、某メーカーと同じ革を使っているので、品質が高いのです』と言っている。


売る側の頭の中にも独自の物差しはなく、価値ピラミッドをベースにした接客をする。


こういった革靴界の状況は、日本に最も強く当てはまるが、西欧やアメリカにおいても同様の傾向が高まっている。



西欧・アメリカ・日本の革靴界に巨大ピラミッドが建築されたのは、これらの革靴界において、無形価値愛好家が大半を占めるようになったことに要因がある。


営利企業は、無形価値愛好家を増やし、彼らに圧倒的な社会的物差しを提示してバイアスを植え付けるべく、『ステイタスが』『一生ものが』といったキャッチーで競争を煽りやすいイメージを発信し、派手な広告や高級な旗艦店で注目を集める。


革靴を『一生もの』にするには相当な技術が必要なのに、その技術については一切教えていない。


この煽りの手法は、都市の在り方、殊に日本の都市の在り方と非常に親和的である。



人は他人と自分を比較する生き物だが、過密する都市では、ステイタスを誇示し合うゲームが至る所で始まる。


承認欲求への刺激が強すぎるのだ。


日本の都市は、マズローの言う社会的欲求以下の各層の欲求を満たすのは容易な社会だが、それが容易であるが故に、上位である承認欲求の階層で欠乏と充足が繰り返される。


例えば、『生きるのがやっと』という世界であれば、ステイタス・ゲームは始まらない。


ステイタスよりも "明日のパン" が大事になるからだ。


ジョンロブなんていらないから丈夫で歩きやすい靴を一杯くれ、という話になる。


それと対照的に、日本の都市は過密しているがしかし安全で清潔な社会だから、すぐにステイタス・ゲームが始まる。



こういった都市の在り方と、メディアの発達で社会的物差しを作りやすくなったことの相乗効果で、どんどん無形価値愛好家が増えているのだ。


ブライトリングの日本の広告では、時計を付けた腕でつり革を掴むシーンを採用しているが、この映像こそ、日本の消費者の在り方の象徴だと思える。


いまの日本は、質の高いものより、ステイタス・ゲームで勝てるものが売れる社会だ。


革靴界にも無形価値愛好家が増殖し、売り場がイミテーションで溢れ、本当に良い靴が淘汰されていった。



バブル期に英国靴が日本へ入ってきた時のことを思い出してほしい。


エドワードグリーン、ポールセンスコーン、クロケット、どれも消費者にとってほとんど初見だ。


当然、ステイタス、無形価値を求めてこれらを買い求める者もなく、よって革靴の価値ピラミッドも生まれなかった。


ジャングルの奥地で、ルイヴィトンのモノグラムを見せられるのと同じだったことだろう。


よって、高級外車を乗り回しステイタス・ゲームに興じていたバブル紳士とて、グリーンやポールセンスコーンを買わなかった。


有形価値愛好家のみが、自分の目で真価を問うて、『票を投じ』ていた。



私は、例えばマイヤーなど、日本でそれが評価される物差しが存在していない靴を頻繁に出品する。


日本の靴界では、エイジングを愛でる文化が広く根付いておりませんが、エイジングされた靴も頻繁に出品する。


こういった物差しなき革靴たちに対して、有形価値愛好家の方々が日々『票を投じて』下さっているのだが、バブル期の日本の靴売り場でも全く同じ光景が見られた。


当時の日本の靴界にいた靴好きの多くは、私の出品ページに来てくださる方々と同じく有形価値愛好家だったのです。


われわれの仲間で靴界が占められていた。


故に本当に良い靴が淘汰されず、売り場に残っていた。



その様子をリアルタイムで見ていた古参は、いまの日本の革靴売り場を見てこう言う。



『名目額(当時はグリーンで5万円)で300%以上になったにも関わらず、どうして革質は落ちているのか』

『東欧やイタリアなら、失敗作とされ破棄されるものが、どうして高級品として売られているのか』

『どこからどうみても失敗作なのに、ネームがあるからといって、どうしてそれを有難がる人が絶えないのか』



これらの原因は、営利企業の必勝パターンのなかで革靴界にも無形価値愛好家が増殖し、革靴界に強い価値ピラミッドが建設された事にあります。


どんどん品質を下げているのに、どんどん価格は上昇して、しかし人気を維持している西欧アメリカの高級靴を見ていると、"宝物を失った" と言わざるを得ない。





真の芸術を生む東欧世界から。



冷たい水に蛙を入れる。

水温を徐々に上げていっても、蛙はその温度上昇に気付かず、沸騰して死んでしまうらしい。

もしかすると、わたしも日本の革靴界にいれば、沸騰する水中の蛙のように、前節で論じた日本の靴界の現状に気付かずにいたかもしれません。


以上の批評によって非難を浴びることを懸念していますが、靴界が瓦解していく恐怖に比べれば、その懸念などは極小さなものです。

以下では、日本や西欧アメリカの革靴界とは一線を画す東欧の靴界の現状について言及します。

東欧の靴界から学び、東欧の靴から学ぶことは、今のわれわれ日本人の靴好きには必須だと考えます。


真の芸術とは、個ではなく、社会から生まれる。






● 宝物が在る世界



多数の有形価値愛好家が集まり、長期マクロ創造を行うとどうなるか。


有形価値愛好家は、自分の頭の中に物差しを持つ。


自分の五感だけに頼って、製品や情報の質を確かめ判断したうえで、ものを買い、情報を二次発信する。


そのために、有形価値愛好家に対しては、営利企業が社会的物差しを構築して、【a 消費者の在り方 → b 消費者が好む製品の在り方 → c 生産者・流通業者の在り方】を都合良く改変することなどできない。


つまり、有形価値愛好家が多数いる世界においては、営利企業は、aとbを外生変数として受け入れ、彼らの目に適うものを作ることに必死になるしかない。



ある製品に似た別の製品や、評価されるブランドの商品だが出来の悪い失敗作(ブランド価値に甘んじている製品)は、有形価値愛好家から『票を投じて』貰えず、売り場から淘汰される。


つまり、有形価値愛好家で溢れる世界では、売り場に価値ピラミッドなど生まれず、品質の高い製品が横並びに多様化する。



あなたがもし、有形価値愛好家で、周りには沢山の有形価値愛好家がいたとしよう。


あなたの頭の中の物差しが変わったとしても、売り場に出かけたりメディアを見れば、他の有形価値愛好家がプッシュしてくれた逸品がある。


有形価値愛好家が世の中に溢れたとき、宝物を探しに行けば、宝物に出会える世界になるのだ。





● 有形価値愛好家を育てる東欧



東欧の革靴界は、西欧やアメリカ、日本のそれと比べると、かなり特異である。


ウィーンやブダペストをはじめとする都市には、かつてのロンドンと同じように注文靴店が点在しているのだが、その光景は日本のメディアでも紹介されていることもあって想像に容易いだろう。


しかし、こういった都市の靴店は、いわば東欧外からやってきた "外様" のためのものとも言える。



実は、東欧のコアな靴好きだけが踏み入れる田舎には、都会の注文靴店よりも品質の高い靴作りを行う工房が数多くある。


その田舎には、レプリカではなく何十年も受け継がれた民族衣装を着て生活する人々が沢山いる。


この社会では、良いものを見極めて長く使うのは当たり前のことで、細かな調度品から家具に至るまで、代々受け継がれていくものだ。


もちろん、現代の日本でよく聞く『良いモノを長く使いたいんです』という言葉が生まれる余地はない。


かつては日本でも、父親から譲り受けたデニムやジャケットを愛用する学生が沢山いたものだが、そういった文化がもっともっと広範囲にそして根強く残っている社会なのだとイメージして頂きたい。



東欧のコアな世界では、ルイヴィトンのモノグラムが描かれていていることよりも、丈夫で長く着てもヨレないことや、肌触りの良いことの方が大事だ。


実質のないことは罪であり、実質のないものに価値は生まれ得ない。


ジャングルのなかで一万円札がティッシュ以下の価値しかないように、ここではソックシートの記号には何ら価値がない。


マテルナやバリントの "記号" があったとしても、その品質が低いならば、すぐに市場から淘汰される。


革の質と仕事の質、有形価値(長く履けて、足なじみがよく、悪環境に強いか否か)のみに依存して革靴の価値が決定するのだ。



東欧の一定レベル以上の靴好きは、都市で生活するものであっても、こういったコアな世界で生まれてくる靴の製品の質を知っている。


それらを見る事で、真に良い靴(有形価値の高い靴)とは何かを徹底的に学ぶ。


もちろん、靴だけでなく、あらゆる製品(それはハンマー1丁から建築にいたるまで)から、モノの見方を学ぶ。


そして有形価値に心を掴まれるのだ。


宝物に心を掴まれる子供のように。




多くの者が、有形価値財の実物から学び、その美しさを幼少期から学んでいる。


多くの者が、有形価値愛好家として成長する。



そして、この社会においては、承認欲求の不足が発端となるステイタス・ゲームが始まる事もない。


もちろん不潔で危険だからではなく、時間も空間もゆったりと流れるがため、実質のない無駄な競争が始まらないのだ。


日本や西欧アメリカの社会においては、満たされない何かを埋めるために高額商品を買う者も多く、ともすれば物欲の根源が "不足" にある。


高級靴を買う事は、"穴を埋めること" になり得る。


だが、この社会においては、"愛" が全ての始まりだ。


有形価値への "愛" を求め、それ故に高級靴は選ばれる。



東欧のコアな世界では、有形価値愛好家として多くの者が育ち、ステイタス・ゲームとは無縁であるために、彼らは生涯有形価値愛好家で在り続けるのである。


日本や西欧アメリカのように、無形価値愛好家が増殖することはない。





● 東欧は、宝物になれる靴で溢れている。



有形価値への "愛" に満ちた靴好きが集結するところには、有形価値の高い、本当に質の高い靴を提示するしかない。


そのために、作り手の側も有形価値創造だけに没頭し、有形価値への "愛" に満ちている。


そもそも、作り手の側もまた、もともとは有形価値を愛でてきた靴好きである。


西欧では、スーパーブランド勢が革靴界に加わり、そこで学んだ者も靴メーカーの経営に参画しているが、こういったことは東欧の靴界ではあり得ないことだ。


履き手、作り手を問わず、東欧には生粋の有形価値愛好家で溢れている。


彼らによる長期マクロ創造の結果、東欧外では想像も出来ないような圧倒的な品質を誇る靴がある。


この場所には、宝物がある。





愛の渦が、いま始まる。



履き手の "愛" へ、作り手が "愛" で応える。


そこで生まれた圧倒的な有形価値財はまた、履き手から革靴への "愛" を深める。


そんな渦が東欧には、ずっと力強く残っており、それがギフテッドを生み出している。



この渦の中心といえるもの。


"愛" を生み出し続けるもの。


今回は、そんなコレクションを私の靴部屋からセレクトしたい。


あなた様が、これを街で履いた時、これを誰かに見せたとき。


それは有形価値愛好家を生み、有形価値愛好家を引き込む渦となる。



決して優越感に浸るためのステイタス・ゲームの開始合図ではない。


道端に咲いた一凛の美しい花を摘んで、それを胸ポケットに指す。


父親からグローブを貰った少年が、それを抱いて駆けていく。


それを見た誰かがまた、幸せな気分になる。


そんな "愛" の渦が始まる。





【あとがき】有形価値愛好家の仲間のために、われわれができること。



私は、営利企業が悪いとか、ハイブランド品が悪いと言っているのではございません。

ジョンロブも、エドワードグリーンも、オールデンも、ウエストンも大好きなのです。

ただ、ジョンロブだから、エドワードグリーンだから、何でも良いというわけではない。

良いジョンロブもあれば、良いエドワードグリーンもある。


また、リーガルも大好きですし、レッドウイングだって好きです。

無形価値ばかりを追っていれば、安いからリーガルやレッドウイングはダメという思考に陥りますが、安くても良い靴はたくさんあります。


モデルによって、個体によって、手入れの仕方によって、履き方によって、そこに真の愛情が込められたかによって、良いか悪いかは変わるのです。

革靴に限らず、すべての製品に言えることでしょう。


私が悪いと思うのは、強い力が作った基準に従って『Aだから良い、Bだから悪い』という具合に、真剣に考えることを放棄すること。

そんな人ばかりになったとき、世の中から本物がなくなってしまうのです。

そして、日本の革靴界を見ていて、その傾向がどうも強くなってきているなと感じるのです。


強者が刷り込みやすくなった時代ですが、われわれのような個人でも正しいことを主張できる素晴らしい時代になりました。

本質ではなく、イメージ先行でイメージ過多の現代だからこそ、われわれ自らがしっかり考える必要がある。

その結果、良いと思ったものや良いと思った情報をしっかりとプッシュする。

そうすれば、宝物がある世界は回復するし、守れるのです。

そのために私に出来ること、それをやっていきたいと思います。

私は、誰かの顔色を伺ったり、媚びたりすることなく、しっかりと主張します。

これこそ、営利目的のメーカーではなく、みなさんと同じ立場のコレクターだから出来る事だと考えます。


最近、私の過去のコラムや著作物を読みたいというお声を沢山いただきます。

取材をしたいというお言葉もいただきます。

本当に有難う御座います。

しかし、私一人の思考を伝える媒体のようなものでは大きなムーヴメントは生まれません。

色んな方々が発信する媒体でなければならない。

そこで、いつもコラムを編集してくれている孫や日本にいる知人に協力を得て、新しいメディアのようなものを作れないかと現在模索中です。

困難もあるかと思いますが、いつか何とか形にしたいと考えておりますので、もうしばらくお待ち頂ければと存じます。


このコレクション出品を通じて、日本にはまだまだ有形価値愛好家の方々がいらっしゃることを知り、とても嬉しく思います。

何の力もないアノニマスなコレクターの話に耳を傾けて下さり、イメージや権力ではなく、そこに込めた想いや思考を見て下さる皆様です。

皆様への感謝を大切にして、今後も頑張っていきたいと思います。

われわれ有形価値愛好家で力を合わせて、ほんの僅かでも、日本に宝物を増やしていきましょう。






■ サイズ



旧品につきサイズ表記なし(おおよそUK6.5から6程度となります)


日本で手に入るラストでしたら、UK6.5相当からUK8相当まではほぼ所有しております。


ですので、普段お履きの靴のサイズを質問よりご教示いただければ、可能な限りアドバイスいたします。





■ コンディション



個人的には美品と判断しております。


通常使用に伴う、スレや傷などは御座いますが、特筆すべき大きなダメージは御座いません。


修理歴も御座いません。


なお、ディンケラッカーのページで述べている網状層メンテナンスを繰り返し行っています。





■ 中古靴を長く履くために



中古靴も、新品の靴をおろした時と同じく、週に2回20分程度の履き慣らしを2か月から3か月、もし可能であれば4か月ほど行ってから、本格的に履いて頂くのがベストであると思われます。


これによって、これから履ける期間が格段に長くなります。


これは、私の出品靴に関わらず、すべての中古靴を買った際にも活きる方法と思いますので、参考にして頂ければと思います。




■ 他のアカウントに関しまして



海外・日本からオークションページにアクセスする関係で、頻繁にセキュリティ問題に引っ掛かります。


そのたびにロックがかかるため、アカウントを複数用意しています。


復活できないと思っていたものが復活したことによって、かなりアカウントが増える事態となりました。


混乱を招いてしまい、大変申し訳ございません。


現在はローテーションして、すべてのアカウントで満遍なく出品を行っています。


機能しているものは、下記のものになりますので、フォローしていただけますと幸いです。


【necocatauc】【hh333yh】【pmpmyj】【c7ver00】





■ ご注意事項



・革製品ですので、文章や画像で表現しきれない皺、傷やざらつき等はあります。しかしながら、致命的なダメージは絶対に記載致しますのでご安心頂ければと存じます。


・出品にあたっては目視での検品の他、30分から60分のテスト歩行を行います。『致命的なダメージ』とは、このテスト歩行で発見できるものを指します。


・私の靴に限らず、古靴で接着層がある場合、経年で接着剤の力が弱くなっているケースがあります。


・黒以外の靴ですと、ご覧になる環境で色の表現が微妙に異なる点をご了承ください。


・どんな些細な事でも気になること(特に状態とサイズ、色につきまして)はご質問下さい。誠心誠意対応いたします。


・特段の記載がなければ、靴本体以外の付属品はありません。付属品がある場合は記載いたします。


・ご質問者様、ご入札者様、すべて靴を通じて知り合った大切な友人でもあると考えております。そのため、人的な対応を心がけています。しかし、若い方はお忙しいかと存じますので、お気になさらずに宜しくお願いいたします。





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