◆新発見一級史料◆一橋徳川家◆二代藩主徳川治済公書状◆初の花押確認史料◆一位様◆細川越中守宛◆大名/将軍家/慶喜/古文書/消息/松平の商品情報

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    2018年7月24日 17時52分
    終了日時
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商品説明

◆新発見の一級史料◆真筆保証
現在まで、花押が確認されていなかった、一橋徳川家の二代藩主徳川治済公が、細川越中守に宛てた非常に貴重な書状です。専門機関で徳川治
済公の花押と確認された史料です。治済公は、一橋家で唯一従一位の最高官位を賜った藩主で、一位様と呼ばれていました。徳川治済公は、日
常的に、花押を記す習慣がなく、花押を押した史料が全く発見されておらず、将軍の父親で、大きな権勢を奮った徳川治済公の正式な花押が確
認されていなかったものが、本史料で専門機関が確認した超一級史料となります。

1820年(文政3年)従一位に昇叙、1827年(文政10年)に他界しておりますので、文政3年から文政10年の書状と判断出来ます。一
方宛先の細川家の藩主は、8代藩主細川斉茲公と判断出来ます。誰も所蔵していない、新発見の史料です。

徳川 治済公とは
徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)は、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たる。
一橋徳川家初代当主・宗尹の四男として生まれたが、兄の松平重昌と松平重富が越前福井藩を継いだため、宝暦8年(1758年)に嫡子(一橋家の継嗣・次代当主)となる。宝暦12年(1762年)に元服、従兄弟で10代将軍の徳川家治より偏諱を受け治済と名乗る。明和元年(1764年)、父・宗尹の死により一橋家を継承する。弟の治之は福岡藩主黒田継高の婿継嗣となった。 田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟意誠や甥意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治斉は松平定信ら反田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍・徳川家治が亡くなり長男の豊千代改め家斉が11代目の将軍職に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。


天明8年(1788年)に家斉は治済を大御所待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして老中の定信と対立する尊号一件が起こる。その結果、治済の「大御所」待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚することとなった。
文政元年(1818年)に剃髪して「穆翁」と号す。漢学者・五弓久文の『文恭公実録』によると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は中野清茂、島津重豪。一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として松平定信が挙げられている)[1]。
のち従一位准大臣まで昇進し、将軍実父として権勢を誇り、没するまで幕政に隠然たる影響力を持った。
文政10年(1827年)、77歳で死去し、跡を六男・斉敦が継いだ。

年譜
1758年(宝暦8年)3月19日、一橋家の世継ぎとなる。
1762年(宝暦12年)12月1日、元服し、将軍徳川家治の偏諱を受け治済と名乗り、民部卿に任官。
1764年(明和元年)11月11日、従三位に叙し、左近衛権中将を兼任。 閏12月21日、一橋家の家督相続。
1781年(天明元年)12月5日、参議に補任。
1791年(寛政3年)3月5日、権中納言に転任。
1799年(寛政11年)1月27日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。隠居する。
1818年(文政元年)6月5日、剃髪。穆翁と号する。12月に裘袋着用を勅許される。
1820年(文政3年)4月21日、従一位に昇叙。
1825年(文政8年)8月18日、准大臣宣下。
1827年(文政10年)2月20日、薨去。法名は最樹院殿性體寶徹大居士。墓所は東京都台東区上野の東叡山寛永寺。
1828年(文政11年)1月20日、贈内大臣。
1829年(文政12年)1月28日、追贈太政大臣。

(2018年 7月 26日 11時 16分 追加)
次回出品は、博物館級の吉良上野介の新発見、研究機関確認済みの直筆書状を出品致します。どうぞご期待下さい

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